QE-LABO 札幌でフリーコピーライター/デザイナーとして活動する五十嵐渉による、
問い(Question?)と気付き(Exclamation!)の発信基地。いろんな問いをお届けします。

『人生生涯小僧のこころ』を読んで。

『人生生涯小僧のこころ』を読んで。

 

著=塩沼亮潤、致知出版

 

学びの仲間であり先輩であり先生とも言える方からいただいた本。
大峯千日回峰行という行を納めた方の、その行のリアルな体験談と、そこから何を学んだのかということが語られた本。
以前にも塩沼亮潤さんのお話はお聞きしていましたが、この本を読んで、静かに、熱く、この方の心が染み込んでくるような、そんな気持ちになりました。

 

この本の感想を書くにあたり、非常に悩みました。今も悩みながら書いています。
というのも、この本に書かれていることは「頭で理解して満足」ということではないからです。
僕は感想文を書くとき、どのように理解したか、理解するかを整理する役割という意味合いが大きいです。「この本に書かれていることはつまりこうだよね」「僕はこんな風に理解した」ということをするのが僕にとっての感想文です。時には他人の感想文を読んだりして、「そんな解釈の仕方があるのか」と考え方を広げたりもします。
いずれにしても、頭の中の世界を広げるような感覚が、僕にとっての感想文なのです。

しかしこの本、「人生生涯小僧のこころ」という本は、どうにもそういう視点で整理できないのです。「スケールが違う」という言葉が適切でしょうか。僕の今持っているものさしでは、この本のサイズは測れないのです。
そういった理由があり、この本を読んでから感想文を書くまでに2、3週間の時間が空いてしまいました。少し時間を置くことでようやくその「スケールの違い」に気づくことができたのです。

 

ではその「スケールの違い」とは何でしょうか?

 

その前に「スケールの違い」という言葉について少し整理しておきます。
この言葉は普段「規模が違う」「格が違う」とか「考え方のレベルが違う」とか、そういった物事のレベルの差や上下関係のような意味合いで使われることが多いように思います。
「月とスッポン」という言葉のように、同じようなことだけど実際には大きな差のあること、といった意味です。
しかし今回僕が使った「スケールの違い」という言葉は、ちょっと違う意味で使いました。僕が使った意味は「尺度の違い」という意味です。先ほど使った「ものさし」という例えのように、同じものを見ていてもその解釈の仕方が違う、ということです。
例えば雨が降った時に「濡れるのは嫌だな」と思う人と「これで野菜が元気に育つな」と思う人では全く解釈の角度が違います。「濡れるのが嫌だ」という人に対して「野菜が元気に育つんだからいいじゃないか!」といったところで何の意味もありません。雨という事象に対する解釈の角度が違うので当然です。
だから、「雨が降ると野菜が元気になるから嬉しいという人」が「雨を目の前にして憂鬱そうにしている人」を見た時には、「何で雨が降ったのに嬉しそうじゃないんだろう?」と不思議に思うわけです。

少々例えが強引ですが、つまり物事に対する解釈の仕方の違いのことを「スケールの違い」という言葉にした、という話です。

 

さて、戻ります。
この本の筆者の持つスケール(解釈の仕方)と僕の持つスケール(解釈の仕方)の何が違うのでしょう?

 

それは「体とこころで解釈する」のと「頭で解釈する」の違いです。
筆者が前者、僕が後者です。
筆者は千日回峰行という行を「体とこころ」を使って体験しました。もちろん、行を修める中で頭を使って工夫したことはたくさんあったはずですが、最大の学びはやはり「体とこころ」で感じたことだったのだと思います。

それに対して僕は、そんな修行の体験談を本で読み、こうしてその意味を書き、頭の中で追体験します。どんなに「筆者は体と心で学んだのだ」と理解してもそれは僕の「頭」で理解したことです。根本的に「スケールが違う」のです。

この「スケールの違い」に僕はある種のコンプレックスがあります。
僕はいつでも「頭でっかち」なのです。
筆者のように本気で「体とこころ」で学ぶ方の姿というのは、本当に神々しく、羨ましく見えてしまいます。
そしてそのことですら、こうして頭でごちゃごちゃと考えてしまうのことが、嫌になってしまうこともあります。

今回感想文を書くにあたり、そのコンプレックスが少し発動していたと思います。
でもそれは、この本を読んで僕が「こころを揺さぶられた」からこそでもありました。この本を読んでいると筆者の言葉ひとつひとつがこころから発せられて、こころにぶつかってくる感覚がありました。
こころを揺さぶられたからこそ、頭で考えるのが難しく感じたのだと思います。
それだけのエネルギーのある本だったのだと、今思います。

 

コンプレックスと言いましたが、僕は自分のそういった部分が嫌いなわけではありません。考えすぎることが自分の学びの原動力でもあるからです。
筆者は本の中でこう言っていました。

 

「山で修行した人だけしか悟れないというものではない。それぞれの生活の中で、それぞれに与えられた役割を果たしていく中で、心を研ぎ澄ませ、目を凝らし、耳を澄ませたとき、いろいろなことが悟れる。」

 

どんな本からでも、「今の自分に学べることしか学べない」と思っています。逆に言えば「自分が学びたいと思ったことを学べる」とも言えます。
恐らくこの本から学べることはまだまだたくさんあるのだと思いますが、今の自分が学べたことは「とにかく今の自分の生活の中で精一杯頭を使って学んでいくこと」でした。

 

また時間を置いて、再読してみようと思います。