QE-LABO 札幌でフリーコピーライター/デザイナーとして活動する五十嵐渉による、
問い(Question?)と気付き(Exclamation!)の発信基地。いろんな問いをお届けします。

『すべての教育は「洗脳」である』を読んで

『すべての教育は「洗脳」である』を読んで

 

著=堀江貴文、光文社新書

 

ホリエモンこと堀江貴文さんの本は、何故だか友人からいただいて読むことが多い、というよりも、いただいた本しか読んだことがない。
昨年の誕生日には友人から『ゼロ 何もない自分に小さなイチを足していく(ダイヤモンド社)』をいただいて読んだけれども、この堀江貴文という人は本当に貴重な人なのだと、改めて思う。
何故なら、この人ほど「多くの人に疑問を抱かせる人」はあまりいないからだ。堀江さんはただ自分の人生を一生懸命に生きているだけで、周りに注目され、ファンもアンチも勝手に増えながら、その人達に疑問を抱かせ続けている。
その人の行いが善いものであれ悪いものであれ、結果として「他人に疑問を抱かせる」ことは僕にとっては最も偉大なことである。

もちろん、だから人殺しをしても犯罪をしても良いということには決してならないが、でも事実、歴史的な犯罪者であっても多くの人に疑問を与えて世界を変えてきた例はたくさんあるように思う。戦争というのはその際たる例で、戦争をするには誰一人として正しさはないが、戦争は多くの疑問を僕たちにもたらして、そして世界を前進させる。
とにもかくにも「疑問」が人を、世界を成長させる原動力であり、堀江貴文という人間はその疑問をもたらす人であるのだな、と思うところである。

 

『すべての教育は「洗脳」である』という刺激的なタイトルのこの本は、現在の日本の教育がどういうマインドを生み出すのか、それに対して急激に変化していく世の中で生きていくにはその洗脳を打ち破って「変化を恐れないマインド」になるのがいいのでは?という提唱をしている。
堀江さんが多くのマイナスな批判を浴びるのは、堀江さんが「自分の考え」を述べているからではないかと思う。この本で語られることもそのほとんどが堀江さんの経験に基づいている。それに対応する歴史を参照したりと裏付けをすることもあるが、基本は「と僕は思う」という話だ。堀江さんはあくまでも「僕はこう生きる。こう生きている」という話しかしない。
ある意味頑固に、主観を離れない。これは案外難しい。他人に自分のことを理解してもらおうとした時、どうしても人は「客観的事実」を裏付けにしたがる。その方が説得力が増すと自分自身が感じているからだ。自分の主観で語ると「それはあなたがそう感じただけでしょ」という反論がいつでもついてくる。主観なのだから根本的なところで他人と共有することはできない、だから主観的な意見を客観的な意見で裏付けして語る。これが一般的なやり方である。
それを堀江さんはやらない。厳密には必要なところではやっているのだが、ある意味肝心なところでは主観を語っている。引用する客観的事実においても「それは歴史のイチ方向的な解釈に過ぎない」と言われる隙のあるような引用の仕方が多い。参考文献の紹介もないのでそれは仕方ないことなのだが、肝心なのは堀江さん自身が「それでいい」と思っているであろう点である。堀江さんにとって大事なことは「説得・納得してもらうこと」ではなく「自分が自分の思うように行動できること」一点のみだからである。堀江さんは自分が思うことを語り、自分が思うように行動しているだけなのだ。

 

ほとんどの人が、自分の思いや考えや行動を「認めてもらいたい」という欲求を持っている。それが存在の根幹を支えているといってもいい。他人に存在を認められて初めて我々人間は存在できるということが無意識にある。
堀江さんの場合はその逆で、まるで「他人に認められなくても自分が認めていればいい」というように見えるかもしれない。でも実際には堀江さんも普通の人と同じであるのだ。普通の人と同じように、あるいはそれ以上に仲間を大事に思っているし、社会に貢献することを考えている。でなければここまで有名になるほどの業績を上げることなどは不可能である。

 

何故、「他人の理解を求めていない」ように見える堀江さんは「仲間を得て、社会に貢献できる」のか。
この部分の「疑問」こそが、堀江さんに対する批判を活発にするのであると思う。
「自分はこんなにも他人に認められようと努力しているのに何で自分勝手な彼の方が成果を上げるのか」ということが、納得がいかないのだ。

 

その謎を説明しよう。簡単なことである。
「自分の思ったことをする」ことが「仲間を得て社会に貢献する最良の方法だ」と信じているからである。
決して堀江さんがナルシストだと言っているのではない。堀江さんが見ているのはこの世の中の「原則」であるから、自分の考えていること思っていることを信じることができるのである。決して無条件に自分を信じているだけではないのだ。

 

原則とは何か。僕のこの一年ほどの最上の学びである「七つの習慣」を共に学ぶ方の言葉を借りるとそれは「原因と結果の法則」である。ものを投げると地面に引き寄せられる万有引力の法則のように、「こうすればこうなる」と決まった法則がこの世界にはある。それは科学が解き明かす物理的な法則だけではなく、人間関係、人間社会においても同じように存在するというのである。
例えば「嘘つき者と正直者では正直者の方が信用を得る」というのは、原則である。どの時代どの国であっても、人間であれば共通の真理として機能する「原因と結果の法則」である。だから「僕は嘘つきと正直者なら正直者の方がいいと思うから、なるべく嘘はつかない方がいいと思う」と誰が言っても、多くの人の同意を得ることができる。
堀江さんが語っていることは、その類のことなのである。堀江さんが「僕はそう思う」と言うことは、実はその背後に「社会の原則ってこうだから、僕はそう思う」という意味があるのだ。しかし多くの人は「原則」ではなく「常識」の方を根拠に「正しいか正しくない」という基準で物事を判断する。堀江さんが根拠とするものが何かわかっていないから、多くの批判が集まるのだ。

 

「原則」を知っているから良いとか、知らないから悪いとか、そういうことが言いたいのではない。
「何でなんだろう?」と疑問を持つことで初めて、「原則」を見つめることができるということが言いたいのだ。
そして激しく変化するものを見るときには、「どう変化したか?どう変化するか?」ではなく「何故変化するか?」を見る方が、結果的に予測しやすいということが言いたいのだ。

それが原則を見るということであり、変化することの本質であり、これからの時代に必要な観点だと、僕は思う。