QE-LABO 札幌でフリーコピーライター/デザイナーとして活動する五十嵐渉による、
問い(Question?)と気付き(Exclamation!)の発信基地。いろんな問いをお届けします。

日本古代史を科学する

『日本古代史を科学する』を読んで

中田力=著、PHP新書

 

この本を読み終わって、いつものように読書メーターで登録したときに、他の人の感想を数十件読んでみた。大半が「科学と言いながら根拠のないことばかりだ」というような感想で、「オカルト本だ」とまで言うものまでありました。
僕の個人的な感想はそれらとは真逆で、実に科学している本だと思いました。僕と同じような感想を持つ人もちらほらといたようですが、少数派でした。

 

どうして一つの本を読んで、こんなにも対照的な意見を持つのだろう?
それこそがこの本で語られた科学、あるいはさらにその根底にある「学問」の現状を表しているのだと思う。この学問に対する意識の違い、もしくは未発達度合いが、こういった意見の違いを生み出しているのではないでしょうか。

 

まず、何故一つの本の感想がこんなにも対照的になるのか?
それは、言葉の「土台」が語られる人によって違うからではないかと思うのです。

 

例えば、二人の人に「りんごは何色ですか?」という質問をしたとします。
一人は「赤色」と答え、もう一人は「緑色」と答えたとしたら、この二人の違いは何でしょうか?
それは「りんご」という言葉をどういった前提で解釈しているか、の違いです。一人は赤いりんごを「りんご」の前提として、もう一人は青リンゴを「りんご」の前提にしているのです。
だから、「りんごは何色ですか?」という質問を受けた時点で二人は「違う土台」の上で答えを考えていたのです。だから、答えが全く違うものであっても何ら不思議はないのです。
世の中大抵のことが同じような理由で意見が分かれます。政治はむしろそれが当たり前で、どの政党の立場に立つかで意見が変わります。それぞれ土台が違うので、なかなか意見がまとまることはありません。
つまりこの本を読んだ人の感想が対照的に分かれたのは、そういった土台の設定が読者によってバラバラだったからだと思うのです。

 

しかし、僕が言いたいのは「だから人それぞれ意見があっていい」とか「それをお互いに理解し合おう」ということではありません。
科学、学問とはそもそも「その違いを無くして同じ土台で考えよう」という試みであるということなのです。
りんごの味は人によって感じ方が違います。甘く感じたり酸っぱく感じたり、味がしなかったり。でも、りんごの甘さ成分はソルビトールから変化した果糖やしょ糖であり、誰が食べても同じです。1+1は誰がみても答えは2です。個人的な解釈で変わることがない土台を探し続けるのが学問なのです。

 

ここで大事なのは、今ある学問の土台が「必ず正しいというわけではない」ということです。この本では第一章「二十一世紀の科学」という項で、そのことが語られています。科学そのものも、あらゆる前提を覆しながら、言い換えれば「大いに間違えながら」ここまで進んできたのだということが確認されていました。しかし、たぶん著者の中田教授にはそんなことは当たり前で、改めて親切に細かく説明することはなかったのでしょう。あるいは、本人は丁寧に説明したつもりなのかも知れません。ですが残念なことに、多くの読者にはそのことが伝わらなかったのだと思います。「第一章は読まなくていい」という感想をあげている人もいたぐらいですから。
その結果、多くの読者はこの本に「作者が考える”答え”」が書いてあると思ったのでしょう。しかし実際にこの本に書いてあることは「日本の起源について、魏志倭人伝を土台に仮定して、その土台が正しいか間違っているか検証しよう」ということであったはずです。そして最後のメッセージにあるように、そういった思考を通して、一人一人が「自分がどう言った土台に立っているのか」をもう一度冷静に見て欲しかったのだと思います。
しかし土台設定のすれ違いにより、この本への視点が「正しいか間違っているか」という部分に焦点がいってしまったのが、残念に思えました。

 

この感想文にしても、僕がいう「科学」や「学問」という言葉が何を土台にした言葉なのか明らかにしていません。つまり、結局のところこの感想文も他の感想文と何ら違いはないのです。
それは僕が学問としての教養を受けていないことが原因であり、そしてほとんどの現代の日本人が僕と同じであると思います。現在の義務教育や大学から就職のシステムでは、そういった学問の本質を学ぶ機会は限りなくゼロに近いと思うからです。

 

だけどここで忘れてはならないのは、教育や社会の仕組みがどうであれ、僕たちには学問が根付いているということです。
先に挙げた感想文だって、作者が語ることが正しいのかどうか「疑う」ことができるからこそああいった内容になるのです。その疑うということが学問の基本姿勢であり、永遠の原動力です。一つの本に対して対照的な感想が生まれるというのは、僕たちにはその疑う力があるということの現れだとも捉えられます。

 

人を疑えということではありません。
自分を疑えということでもありません。
土台を疑うのです。
なぜ自分はそれを正しいと思ったのか、
なぜ相手はそれを間違っていると思ったのか、
その土台を見るのです。

 

土台がどこから来るのかを知ることで、
その上に積み重ねるものの意味が変わるはずです。
きっと変わります。

 

学問というものが軽く扱われるのを悲しく思います。
仕事をする上で何の役にも立たないという言葉が嫌いです。
別に僕自身は教育者の立場でも何でもないですが。
僕自身が、僕の言う学問を実践できているわけでもありませんが。
とにかく、そう思うのです。