QE-LABO 札幌でフリーコピーライター/デザイナーとして活動する五十嵐渉による、
問い(Question?)と気付き(Exclamation!)の発信基地。いろんな問いをお届けします。

現代語訳 学問のすヽめ

『現代語訳 学問のすヽめ』を読んで
(福澤諭吉=著 斎藤孝=訳 ちくま新書)

 

一万円札の肖像になっている「福澤諭吉」。「学問のすヽめ」と聞けば、知らない人はいないと思う。どちらの名称も教科書に出てきたことと思うが、福澤諭吉がどのような人物であったか、学問のすヽめが何を説いたものかも、知ることはなかった。
今年は個人的に「学ぶことをより楽しむ」ことを目標にしていて、あつかましくも現代に学びをもっと浸透させたいという願望があったので、この名著を今年最初の本とした。
何やらこの感想文が少々堅めの文体になっているのは、現代語訳とはいえ明治初期に書かれたこの本を読んだからであり、私が影響を受けやすい体質であるから、どうか多めにみていただきたい。

 

まず何よりこの本を読んでいて印象深かったのは、著者が目の前で話しているような、そんな熱量を感じたことであった。ずっと変わらぬ一万円札に描かれた硬い表情とは違い、福澤諭吉という人物の豊かな表情を、読んでいる間常に感じていた。
そして語る言葉は明快で、いかにして伝えるかという一点において曇りがなかった。読者として「行間を読む」必要がなく、そこに書いてある言葉を読みさえすれば、過不足なく著者の言いたいことがわかるように書かれているように思う。
この本には要約が必要がなく、既に250頁に全てが要約されているようにも思う。
まずその書物としての素晴らしさに感動した。

 

そしてもう一つ単なる印象として受けたのは、2017年11月の「法務会計プラザ」の記念講演にてお目にかかった田坂広志先生と「同じようなオーラ」を感じたということである。田坂先生が福澤諭吉と同じオーラだったという表現の方が正しいのかもしれないが、私が出会ったのは福沢諭吉の方があとなので、福澤諭吉が田坂先生に似ているという表現で間違いないだろう。
ともかく2人に共通して感じたのは「その人自身からオーラが出ているのではない」という印象である。田坂先生の講演を聴いている時、その足元、大地の方から繋がったオーラが出ているように感じた。一個人が出すオーラを超えた、もっと大きな何かを感じたのだ。
学問のすゝめを読んでいて、同じような感覚に見舞われた。この本が明治初期に書かれたもの、つまり今から百年以上前に書かれたという歴史的スケールがそう感じさせたのかもしれないが、一人の人間が持つ以上のエネルギーを感じたのだ。
一つ勘違いしないでいただきたいのは、私が言うオーラやエネルギーとは特別スピリチュアルな話ではなく、どちらかといえば漫画的なファンタジーの表現で、ドラゴンボールの「戦闘力」とか、そういった類のものを言っている。つまり、何の根拠もない個人的な体感の話なのである。人間の魂云々とか宇宙のエネルギー云々ということではなく、相手に対する私の無意識の畏敬の念の大きさ、といった表現が一番良いかもしれない。
つまりはこの本に私は圧倒されたのである。

 

さて、肝心の中身に関しての感想であるが、本を閉じて、筆を持った今感じるのは、とにもかくにも「学ばねば」という思い一点である。
明治初期の日本において、長い専制政治によって低下した国民一人一人の「独立力」は致命的な状況であったと伺える。国を背負うという気概をもつ国民がいない、政府に対して畏れるばかりで、自分の国の主体としての役割を全うしない。それを福澤諭吉は「愚かだ」と一蹴し、国民一人一人の「公」の存在としての成長を求めた。国民は「個」であると同時に「公」であるから、その両方でバランスよく成長し力を発揮するべきだと。
この本を読むにあたって、現代に生きる私は当然現代のことを思いながら読んだわけであるが、百年という時代の差を埋める作業をほとんどしないで読むことができた。つまり、百年前の日本と今の日本とでは、根本的に状況は変わっていないと感じたのである。
明治初期の日本では、長い専制政治の影響により、国民は「公」の存在としての自分を見失っていた。対して今の日本は、戦後の資本主義による高度経済成長の過程で、消費者意識が高まり、国に対して「客」であるという認識が強まっている。つまり、「国民が国に対して主体的でない」という点に関しては、明治初期と現代においては大した差はないのだと思う。
政府に対して「選挙で選んでやったんだからちゃんと働いてもらわないと困る」と言いながら、政府が打ち出す政策については気にくわない、従わない。気に入らないから次は選ばないぞと脅して、政府を都合よく動かそうとする。その反面、年金や税金は払いたくないといい、少しでもごまかして払いを減らそうとする。政府が国民の約束を果たさなければならないなら、国民もまた政府の決めたことを守らなければならない。間違ったことを正したいならルールの中で訴えなければならないはずなのに、それをしない。学問のすゝめの中で語られている状況と、今の状況は何も変わらない。同じである。

 

福澤諭吉は全ての人に「だから変わりなさい」と言っているわけではない。「学者(学びを志す者)が率先して変わりなさい」と言っているのだ。政府がトップダウンで押し付けるでもなく、国民がボトムアップで押し上げるのでもなく、中層にいる「学ぶ者たち」がその間をつなぐのだ、と。
そしてその「学ぶ者たち」とは、単純に学校で学問を学ぶ者という意味ではないはずである。社会にいる「学び」に目覚めた人たちのことを言うのだと、私は思う。

 

今年もたくさん学び、たくさん行動したいと強く思える一冊でした。